凍傷の症状が幾許か緩和したがNGOの職務に復帰したのは、およそ二週間後の事だった
       ガルボイグラードにある本部に出向いたをまず出迎えたのは、新たな現実であった


       「…すみません。今回はご迷惑をお掛けしました。」


       暫しの病臥により生じた穴を気に掛けるに、本部のリーダーは笑って手招きをした


       「いや、君が気に掛ける事は何も無いよ、。風邪の症状を押しての事なのだし。
        …唯、此処はブルーグラード、君に取ってはまだまだ慣れぬ未知の土地だ。無理だけはしないで欲しい。君の熱意を無駄にしないためにもね。
        後、自分の事はできるだけ自分で責任を持って管理できるようにならないといけないよ。自分の体調は自分にしか分からないのだから。」

       「は、はい。本当に申し訳ありません。」

       「はは、そんなに縮こまらなくて良いよ。僕は別に小さな子を叱っているわけじゃないんだから。
        …それとも、そうやってすぐ気に掛けるのは君たち日本人の"恥の文化"の為せる業かな。」


       肩を竦めて見せる本部のリーダーに、は気恥ずかしさのあまり沈黙を以って返さざるを得なかった

       …とにかく、今度からはもっと気を付けよう。例の極左の暴漢たちの事だけでは無く、自分自身の身体の事にも
       これ以上NGO<ここ>の人たちに迷惑は掛けられないし、掛けたくも無いわ
       …いや、ここの人たちだけじゃなくて、もっと身近にいる男(ひと)にも

       このニ週間あまりの間の事を思い出して、はその目を閉じた

       調査に訪れたあのおじいさんの宅を辞した時、自分の体がどうにも言う事を聞かない程に疲労困憊の極みにあったのは良く憶えている
       なんだか体が重くて、とても足取りが重かった
       それでもとにかく本部まで帰ろうとして、歩いて…歩いて
       ……ああ、そうだ…雪が降っていて、街灯が白く光っていた
       それがとても綺麗で、だから私は誰かを呼んだ………誰を?

       思い出そうとすると、の頭の端がズキンと鈍い痛みを覚えた
       記憶の片隅で何かが小さくスパークする

       ……分からない。唯、誰かの体の温もりを感じたような、そんな気がする
       とても柔らかで、私を包み込む様な…それでいて何処か熱い、そんな不思議な温もりが
       あれは一体、誰だったんだろう
       唯、その温もりに包まれているのは、とても心地よかった
       ずっとこうしていたいと思う程に
       …そして、気が付いたらカノンが居た

       ベッドから見上げたカノンの無愛想な面持ちの中に、僅かながら安堵の表情が浮かんでいたのを思い出し、は自分の頬に手を当てた

       やはりあれは、カノンだったのだろうか

       意識が戻ってからの、に対するカノンの態度はそれまでとは微妙に違いが感じられた
       無愛想な物言いや表情は相変らずなのであるが、言葉の節々やちょっとした仕種の合間に何かを言おうとしている様な、
       それでいて躊躇っている様な、そんな瞬間が見受けられた
       最初は気のせいかとも思ったのだが、時間の経過に連れその頻度が増して行く気がしてならなかった
       …更に、の病状が快方に向うのに伴い、カノンが家を空ける時間が長くなった
       唯単にが昏睡する時間が日に日に少なくなっていくから相対的にそう感じるのかとも思ったのであるが、
       やはりカノンの不在時間は確実に長くなっていた
       …疑ってはいけない
       カノンのことは疑わない事に決めたのでは無かったのか?
       は、もう一度逸る自分の心を抑えるのに必死だった
       そして、自分をそうして必死で抑えれば抑えるほど、カノンが帰って来たときに何故か嬉しく感じてしまう自分自身に驚きを禁じ得なかった

       …私は一体、どうしてしまったのだろう?



       「、どうしたんだい?まだ調子が悪いのかな、あまり顔色が優れないようだけど。」


       リーダーに俯いたその顔を覗き込まれて、ははっとして我に返った
       混乱と困惑とで蔓の様に絡まり掛けた思考回路を、はその理性の力で瞬時に現実に引き戻した


       「い…いえ、大丈夫です。」

       「…そうかい?それなら良いのだけれど。本当に無理はしてはいけないよ。」


       が必死に笑顔を作った瞬間、部屋のドアをノックする音が聞こえた


       「はい、入って良いよ。」


       リーダーの返事を待って、ドアがゆっくりと開いた
       扉の向こうに立っていたのは、まだ少女と言っても過言ではない女性だった


       「失礼します。」

       「ああ、君か。丁度良かった、こっちこっち。」


       リーダーに手招きされた少女は、滑る様にして部屋の奥に立つ二人の許へ近寄った
       短く整えられたその髪は、そのうねりに合わせて金色(こんじき)の輝きを眩しく放っている
       その髪型と青い瞳がどこか溌剌とした活発さを感じさせ、は知らず知らずのうちに口元に笑みを浮かべていた
       のその表情を目にし、リーダーは安心したかの様に口を開いた


       「。今日から君のパートナーになってもらうナターシャだ。言うまでも無く彼女の方が若いから、何かと教えてあげてくれるかな。」

       「…え?パートナーですか…?いままで一人だったのに、どうしてまた?」

       「特におかしいことでも何でも無いよ。他のメンバーも半分くらいは二人以上のグループ行動を取っている。
        それに彼女は新入りではあるが、地元の人間だ。君に取っては此処の地理や政情に通じたメンバーと組む事になり、
        彼女にとっては作業のノウハウを知る事ができる。
        まさに好都合じゃないか。」


       休み明けの身に突然の宣告で驚きを隠しきれないだったが、成る程、話を聞くうちに納得し大きく頷き、ナターシャを向き直った


       「そうですね。分かりました。…私はです。よろしくお願いします…えっと。」

       「ナターシャです。こちらこそよろしくお願いします。」


       に差し出された手は、白磁の如く滑らかできめ細かい肌をしていた










       夕刻、とカノンは何時も通りの二人の食卓を囲んでいた

       結局、その日は病明けと言う事情もあり、リーダーはを新たなパートナー・ナターシャに紹介するだけに留めてを家に帰したのだった
       夕刻にはまだ程遠い明るい時間であったため、は一人で家路に着くことにした
       三時ごろに家に辿り着いたは、扉を開いた


       「ただいま。…カノン?」


       一応呼んではみたものの、やはり彼の姿は家の内には見当たらなかった

       …今日はこんなに早いんだもの
       カノンだってずっと家にいる筈も無いわよね

       一人で居ると心の片隅に沸き上がるカノンへの懸念を払拭するために、は夕食の支度を始めた
       何時もはカノンが食事を作り、を本部まで迎えに行くのが決まりなのだが、とて長い間一人暮らしをしているのだ、
       当然料理は一通りこなす事が出来る

       まだ昼下がりと言って良い時分、たまには手の込んだ料理でも作ってみようか

       は食料庫から芋や蕪などの食材を探して、徐に包丁で皮を剥き始めた



       カノンが家に戻ってきたのは、五時を回った頃だった
       を本部に迎えに行く前に一度立ち寄るつもりで家のドアを開いたカノンは、鼻腔をくすぐる良い香りに立ち止まった


       「ああ、お帰りなさい、カノン。」


       台所に立つが、ちらりとカノンを振り返って声を掛けた
       何時もとは違う…そして今まで触れた事の無い温かなその光景の前に、カノンは暫し瞠目した
       新鮮な驚きと共に一種の困惑が胸の裏に生じ、どうして良いのか分からずカノンは唯無言で立っていた
       背後に立ったままのカノンに気付き、は笑ってカノンを仰ぎ見た


       「どうしたの、カノン?もうじき出来るから座ってて。」

       「…帰っていたのか。」

       「ええ。今日はすぐ終ったの。まだお昼くらいだったから、大丈夫だと思って自分で歩いて帰って来たわ。
        …いけなかった?一応、周囲には気を付けて帰って来たつもりなんだけど。」

       「…いや。」


       に背を向けて短く応えたカノンは、ドサリとソファにその身を沈めた
       カノンの視界の中心に映るの後姿は、久々に職場の空気に触れたからなのか、溌剌として眩しい程だった
       …尤も、カノンがを眩しく思ったのは、が職場に復帰したからだけとは限らないのであるが
       ともあれ、今のに病の暗い影は微塵も感じられない

       …良かった

       の背を見遣るカノンの視線が優しい安堵の色を帯びている事に、当の本人も気が付いてはいなかった






       「…で、明日からはその娘(こ)と二人行動になるみたい。
        ブルーグラード(こっち)の娘だって言ってたから、私も地理の不安が少しは減って良かったわ。」


       ボウルの中のボルシチを掬う間も無く、は今日出会った少女の話ばかりをし続けた
       快活なの横顔を見詰めながら、カノンは唯黙っての話をずっと聞いていた
       暫くして、自分のボルシチがすっかり冷め掛かっている事に気付いて慌ててスプーンを持ったに、カノンはゆっくりと口を開いた



       「…くれぐれも、無理だけはするな。」



       その言葉に顔を上げたは、カノンの目元に今まで見た事の無い優しい表情が湛えられている事に驚き、一瞬の空白の後、俯いてスプーンを握り直した









       翌日から、とナターシャの二人は早速任務を再開した
       仕事の内容は以前と同じで、この土地に住まう人々の皮膚状態を調査する事であったのだが、やはり一人の作業が二人となり、
       しかもナターシャが活動自体に新入りである以上、作業の段取りやペースは以前とは多少異ならざるを得なかった


       「それでね、この欄に今の内容を書き込むの。…良い?」

       「はい、分かりました。じゃあ、この項目には何を記入すれば良いのですか?」

       「うん、そこはね…」


       以前は一人でこなしていた作業を、今はナターシャと二人、一緒に進める
       二人組の仕事と言うものは、組み合わせによっては一人よりも能率が落ちる事も有り、逆に二倍以上の効率を生み出す事もある
       全ては二人の「相性」に起因するのであろうが、とナターシャの相性はどうやら後者のパターンであった
       確かに当初は細かい作業内容やノウハウなどを逐一説明する手間が必要であったが、
       ナターシャはの教えた事をあたかも砂が水を吸収するかの如く次々と学び取った
       彼女の有能さを肌で感じ取ったも、ナターシャに微に入り教える事を微塵も厭わなかったため、
       次々と細かな手際まで彼女に伝える事が可能となり、日を追って二人の間の距離も隔たりを浅くして行った
       …まるで姉妹の如く、任務の合間に互いの事や将来の夢を語り合う機会も徐々に増えた

       まだ少女のナターシャは、から大学の話を聞く事を殊更好んだ
       それはこの極寒の僻地からの一種の憧憬であったのかもしれない
       または純粋に未知の世界への興味から生じたものであるのかもしれない
       何時も真摯にに接する彼女にしては珍しく、大学の話を聞く時のナターシャの態度は非常に積極的・能動的であった
       そして、も別段そんな彼女の態度を厭う事も無かった
       寧ろ、そんな時にこそ彼女の少女らしい一面が垣間見られる気がして、逆にとても快く感じていた
       そして、住む土地や国の情勢に限らず、何よりはナターシャよりも一回り近くも年上であり、
       先人として己の経験を語り聞かせる事を嬉しくも思っていたのだった
       …こんな二人の組み合わせは、まさに天の配剤であったのかもしれない






       週末を迎える金曜日、この日はその一週間の任務の報告日に充てらる決まりだった
       午前中は通常通りの任務に当り、午後の時刻になると何処からとも無くメンバーが本部に集い、
       茶を飲みながらそれぞれの担当区画や任務の状況について報告しあう流れになっている
       各々が組織全体の現状や今後の活動方針についてボトムアップ視点で意見を交わし合うことが可能となり、
       同時にメンバー間の交流や理解の促進も図ることができる
       また、ブルーグラードの社会的情勢や危険地区の状況に至るまで、活動時の注意を喚起する目的も果たす事ができる
       一石が何鳥にもなり得るこのミーティングに、も3週間ぶりに出席した
       勿論、新入りのナターシャを伴って、である


       「やあ、。聞いたよ。大丈夫だったかい?」

       「もう具合は良いの?無理しないでよ。」


       久々にの顔を見たメンバー達の間から、矢の如くに声が掛けられた


       「…どうもご迷惑おかけしました。もう大丈夫です。ありがとございます。」


       言葉を交わした事も無いメンバーにまで話し掛けられて、は内心何か面映い気持ちだった

       …やっぱり、此処に帰ってきて良かった
       頑張らなくちゃ…この人たちのためにも、そしてこの国の人たちのためにも

       どこか誇らしげな顔で決意も新たに笑い返したに、一人のメンバーが話し掛けた


       「あれ、。…その娘(こ)、のパートナーかい?まだ見ない顔だね。」

       「ああ…ええ。先週入った娘なんです。まだリーダーから紹介されてないんですね?」


       は隣にいるナターシャの背中にそっと手を添えた


       「多分この後リーダーが紹介すると思うんですけど。彼女はナターシャです。
        ブルーグラード(こっち)の娘だから土地のことにも詳しくて、とっても助かっているんですよ。」

       「…ナターシャです。宜しくお願いします。」


       我が事の様にが彼女を誇るのを目前にして気恥ずかしくなったのか、ナターシャが俯きがちに挨拶をした
       その何とも初々しい素朴な態度に、何処からとも無くヒュッと口笛が上がる


       「駄目ですよ、からかったりしたら。この娘は私の大事なパートナーなんですから。」


       が軽く嗜めると、口笛の犯人と思しき男性メンバーが頬を掻いた

       バタン
       一連のやりとりにメンバー全員が笑ったところで、ドアが開いてリーダーが入って来た


       「やあ、なんだか楽しそうだね。
        …ああ、。もうだいぶ良くなったみたいだね。僕も安心したよ。」


       笑いながら部屋を見回したリーダーは、ナターシャを見つけると彼女の方向を向き腕を振り翳して指し示した


       「みんな、彼女はナターシャ。先週入った新人だ。よろしく頼む。」


       リーダーの大きな声に合わせ、ナターシャは再びメンバー達に挨拶をした
       メンバー達の間から、俄に拍手が沸き起こる
       それは、彼女を一員として認めると言う彼らの承認の証であった
       顔を上げたナターシャは、上気した中にも何処か誇らしげな表情を浮かべていた
       に取っては、ナターシャのその表情こそが今日何よりも一番の報酬だった








       二時間ほどでミーティングは終わり、後は各々、家に帰って寛ぐなり街中で少々買い物に勤しむなり自由な週末の始まりだった
       カノンが迎えにくるまで少し買い物にでも繰り出そうかと考えていたに、ナターシャが声を掛けた


       「あの、さん。もしお時間があったら、私の家に来ませんか?」

       「…え?ナターシャの家に?」

       「ええ。狭いフラットなんですけど、此処から近いのでお茶でも飲んで行きませんか?」


       先ほどのメンバー達からの歓迎の余韻か、ナターシャの顔はまだどこか上気してうっすらと紅に染まっている
       本当にこの娘可愛いなあ、などと思いつつ、は腕時計を見遣った

       …まだ2時半。カノンが来るのは当分先だわ
       それに、近いって言ってるんだし、大丈夫よね
       パートナーとして、彼女がどのあたりに住んでいるのか知っておく必要もあるし

       その流れに従うのであれば、も近いうちにカノンと暮らすあの家に彼女を招かねばならないのであるが、その事にはまだ気が付いていない


       「ええ、いいわ。お邪魔させてもらおうかしら?でも、良いのかしら、急にお邪魔して。」

       「…わあ、良いんですか?…家の事だったら気にしないでください。私…身寄りは兄だけなので。
        あ、兄も一緒に住んでいるんですけど、日中は家にいる事は殆ど無いですから。」


       一瞬だがナターシャの顔に影が差した
       しまったと思ったは、咄嗟に少し話題をずらそうと思い立った


       「あ、お兄さんがいるんだ。…いいなあ。私は一人っ子だったから、兄弟が欲しかったのよね。
        …ま、今はナターシャって妹がいるから大満足だけど、ね。」


       が片目を瞑って笑うと、ナターシャの顔がみるみるうちに綻んだ
       その表情に、は心底安堵した
       …無論、の言葉に嘘偽りは微塵も無いのであるが

       ナターシャの住むフラットの方角に歩き出しながら、二人はまた話に花を咲かせ始めた
       …古今東西、女のおしゃべりには果てる所が無い


       「…ふーん。そうなの、お兄さんと二人暮しなんだ。」

       「…ええ。兄は、アレクサーと言います。すごく真っ直ぐで、一度こうだと決めると私にも一歩も譲らないんですよ。本当に。」

       「あはは。いいわねぇ。なんだか話を聞いてるとナターシャとそっくりみたいに思えるんだけど。気のせいかしらね?」

       「…そうでしょうか…?あ、でも顔は似てないんです。こんな、とても怖い目をしているんですよ。」


       ナターシャは、両手の人差し指で自分の目じりを上に引っ張り上げた


       「何それ、そんな怖い顔してるの!?」


       狐の如く吊り上ったナターシャの目元に、思わずが吹き出す


       「ええ、もう。あまりにも凄みのある目付きなんで、近所の子供に怖がられてるんです。可笑しいでしょう?…あ、ここです。」


       同様にぷっと吹き出したナターシャが、建物の一角を示した
       どこから見てもごく普通のフラットで、外から見てお世辞にもあまり広い造りには思えなかった
       おそらく、とカノンが暮らす家の3分の1程度だろうか
       遠いとは言え、まだ自分の住む家はこの土地ではそんなに悪いものではなかったのだな、と心底は反省した

       木製の緑色のドアに鍵を差し込んで、ナターシャは首を傾げた


       「どうしたの?」

       「…いいえ。鍵を開けようとしたら開いていたので。」

       「…お兄さんがいるんじゃないかしら?」

       「そうかもしれません。」


       ナターシャはドアを開けると、中に向って声を上げた


       「兄さん…?いるの?」


       暫しの時間の後、ガタン、と言う音がして二階の奥から低い男の声が聞こえた


       「ナターシャか?…今日はいやに早いな。」





       ……あれ?この声……





       「兄さん、今日はお客様がいらっしゃったの。ほら、何時も話していた、NGOのパートナーの方よ。降りてきて。」


       タン、タン、タン
       2階に続く階段から、しっかりとした足取りの音と共に細身のボトムに包まれた長い足が徐々に見えて来た








       「妹が世話になっているとの事だが、礼を言………君は……。」

       「あ……貴方は、あの時の………!」








       の目の前に現れたのは、紛れも無くあの夜に暴漢達からを救ってくれたあの男だった








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